出会いと絆

ベンヴェヌート・チェリー二西洋勇侠伝

三遊亭圓朝翻案

Benvenuto

内藤秀夫校訂編纂

  かしおとこありけるという好男子に由縁ある西洋はイタリアの世にも名高い花の都はフィレンツェがお話はかの著 名なるベンヴェヌート・チェリーニというレオ ナルドミケランジェロに比肩する芸術家が稀代まれなる自伝を編み今生に伝わりたる一巻(ひとまき)をいざ言問 わんまでもなく鄙(ひな)にも知られ都鳥の其 の名に高く隅田川月雪花の三つに遊ぶ圓朝ぬしが人情河岸ら有為転変の世の態を穿ち作れる妙案にて喜怒哀楽の其 の内に自ずと含む勧懲の深き趣向を寄席(よせ せき)へ通いつゞけて始めから終りを全く聞きはつることのいと稀れなるべければ其の顛末(もとすえ)を洩さず に能く知る人はありやなしやと思うがまゝ我儕 (おのれ)が日ごろおぼえたるかの永遠の都ローマの世にも名高い哲人雄弁家キケローの書記たる開放奴隷ティ ローが創始たる速記術による業(わざ)をもて書 き残したるを圓朝ぬしが口ずから最(い)と滑らかに話しいだせる言の葉をかき集めつゝ一巻の書(ふみ)として 発兌(うりだ)すこととはなしぬ

平成二十三年元旦 構成執筆 内藤秀夫 (cHideo Naito 2011

 

                                    一

の度(たび)お聞きに入れまするは、ベンヴェヌート・チェリー二西洋遍歴奇談と名題(なだい)を置きました古 い西洋はルネサンス我が邦の安土桃山のお話で ございますが、何卒相変らず御贔屓を願い上げます。頃は紀元1500年中の事で、イタリアはフィレンツェにベ ンヴェヌート・チェ リー二という赤子が生まれました。
此の赤子は父親をジョヴァンニ母親をエリザベッタと申し両親共生粋のフィレンツェ人でありましてその頃は国籍などという
野暮なものはありませんで出生地が人を定めたのでございます。そ もそもこの地フィレンツェという街は今は昔かのローマの世にも名高いユリウス・シーザーがこの地を征討したと きに活躍いたしました将官にチェリーノはフィ オリー二という人がおりましてこの人が我がチェリーニ家のご先祖でございます。
かのシーザーはこのアルノ川畔の土地にローマを見立てた都市を建てたのでご
ざいますが大ローマのキャピトルやコロセウム大浴場さらに聖堂の諸々をば縮尺して少ローマと言うに相応しく建 てましたものでただいまでもその遺跡を見るこ とができるそうでございます。かの勇敢なる将官フィオリーノがこの地の司令官となりましてからその名前が訛っ てフィレンツェと呼ばれるようになったと伝え 聞いております。一説では川という意味のフルエンテから発したと言われますが西洋の各地では川という言葉が都 市の名前になることはございませんでそれはか のローマにはテーベレ川フェラーラのポー川リヨンはサオーヌ川花の巴里はセーヌ川ウイーンはダニューブ川とい う具合にそれぞれ異なってございます。まあこ の起源についてはいろいろありましてなんともいえないようでございます。 さてこの赤子は女児ばかり産まれて 父ジョヴァンニが絶望したところへ男児が生ま れたものですからよくぞ来たというイタリア語のベンヴェヌートの名をもらったのでございます。                 さ てこの赤子はすくすくと育ちましたが十何人産まれて結局姉と弟の三人が長生しましてこれが当時の宿命というか 神の思し召しというわけでございます。父ジョ ヴァンニは多芸多才の人でありましてアルノ川の水車ではた織り機を動かしたり彼の巨匠ミケランジェロのダビデ 像をシニョーラ広場に選定する委員会に参加し たりレオナルドの有名な「アンギアーリの戦い」の足場を組んだりしたそうで技師かと思いきや楽器を操ってラッ パやフルート鍵盤楽器ヴィオールをよくしたそ うでございます。其の時代はかの有名なメジチ家が全盛を誇っておりましたから其のご家来となって音楽行事を 司っていたようでございます。さてこの息子が年 頃になりまして父親の言うとおり楽器のひとつでも弾けなければこの世に立っていけない武勇のひとは文芸にも秀 でていなければならないという本邦のサムライ の如き強烈な信念の持ち主でございましたから息子はたまりません。嫌々ながらコルネットというラッパを選んで 毎日吹いておりますしかしこれが向後如何に役 に立ったかはあとで申し上げます。さてベンヴェヌートが三歳のときまだ祖父アンドレアは百歳という高齢ながら 生存しておりまして,或る日共同水槽から水を 引く導管の修理がございまして近所に菅がごろごろしております。家の前にあるベンチに座って遊んでいるベン ヴェヌートが下を見ると黒い蟹ガ這っております 素早く手で捕まえて得意になってお祖父さんにちっちゃな蟹を捕まえたようっと見せびらかしたものですがお祖父 さんは一目で孫の手にあるのが蠍だと分かりま したのでギョッとしましたが落ち着いてこちらに寄越すように言いますがいっかな益々強く握って離しません。蠍 は爪を振り尾っぽを跳ね上げて蠢いています。 父親も叫び声に気がついて息子の命に関わる危機をどうしようフト大きな鋏が目に入りましたのでそれをもって飛 び出すと息子を宥めながら素早く蠍の尻尾と爪 を切り落としたのでございます。そうしてこの不幸中の幸いを父はむしろ吉兆であると息子の前途を祝ったのでご ざいます。五歳の頃父が地下室でヴィオールを 弾いておりましたが傍らの炉の薪が勢い良く燃えて寒い日でございました。赤く燃える薪に何かが蠢いていてそれ がトカゲだと見るとすぐに姉と弟を呼んで示し ながらベンヴェヌートに強烈な平手打ちをくわしました。息子は忽ち大声で泣き出します父は直ぐやさしく宥めな がらお前が何か悪さをしたからではないこの火 中のサラマンダーという珍しい名前を記憶してもらう為だというのでございます。少年時代は音楽教育で始まりい やいやながら横笛と歌を譜面で勉強することに なりましたがそれは父に従うことが息子の勤めであると思ったのでございます。父はパイプオルガンを良く弾き木 の横笛リュートヴィオールハープなどをいとも 簡単に作ってしまう手先の器用な職人でもございましたがこれ程熱心な教育パパはこの時代には珍しいんじゃない かと存じます。こうみてまいりますとこの少年 の父親の影響は絶大であることが分かります。
父親はそれ以前からメジチ家の楽団に招請されてフルート吹きとして専任することになりましてこれはベンヴェ
ヌートの生まれる随分前のことでございますがメジチ家のロレンツォ・イル・マニフィコやその息子ピエロなどの 覚えめでたくいろいろな木や象牙を使った細工 物を作ったそうでございます。さて父は忠実なメジチ家の家来でありましたが、ロレンツォの跡継ぎのピエロが町 から追放になりましてからは共和制となりまし てその首長(ゴンファロニエーレ)に選ばれたのが尊敬すべきソデリーニという方でそのまま楽師の親方を続ける ことができおまけに技師としての才能を認めら れるようになりました。その頃はまだ幼年でしたが笛も上達しましたので或時シニョーラ広場のコンサートで肩車 をしてもらってトレブル縦笛を吹くのをソデ リーニが見られて後で飴などを呉れたことがございました。
ソ「マエストロジョヴァンニ、この子は音楽だけでなく何か別な芸の道に進めばきっと出世すると存ずるがのう」
ジョ「はぁ、私はこの子には演奏と作曲を教えて類稀なる音楽家に仕立てようと存じております」
これを聞いた古い同僚が申しますには、
同「マエストロ・ジョヴァンニ、私はゴンファロニエールの仰るとおりだと存ずるがのう。どうして音楽家以外の ものになっちゃいけないのかねぇ」
うして共和制がしばらく続きまして復々メジチ家が戻って参りますが、こんどの当主は後に法王レオになりました ジョヴァン二という方でございます。さて父が 息子の将来が奈辺にあるかを分かっていたと思いたいのですが処がそうは問屋が卸しません。ロレンツォ公は今に 伝わる博物館のようなフィレンツェ文化の基礎 を築いた功労者でございますからボッチチェリジオットーレオナルド、ミケランジェロ等の天才芸術家が彭湃とし てでたのも頷けるわけでございます。少年ベン ヴェヌートはこの美術館のような街を歩きながら芸術的なセンスを居ながらにして身につけていったというわけで ございます。少年ベンヴェヌートは嫌々ながら 楽師として上達して父親の楽団に若年のコルネット吹きとして得意になって祭礼や馬上試合の度にシニョーラ広場 を囲む大群集の中の華やかな行進やらメジチの お屋敷で演奏会などをやっております。こういうこともあって父親は音楽師として立つのが有利だと思ったのでご ざいますな。ところが息子の方は音楽など軽薄 なものは芸術ではないと思うようになっていたのでございます。それはそうですわな当時のフィレンツェの町はす でに十五世紀に美術館になっていたのでござい ます。
いちいち名前を挙げますと、皆様の中にはこれとご存じの向きがおられると思いますのでので試しに、ドナテッロ、ブルネレスキ、ギベルティ、ルカ・デッ
ラ・ロッピア、フラ・アンジェリコ、パオロ・ウッチェロ、フィリッポ・リッピ、アンドレア・デル・カスター ニョ、ボッチチェッリ、ギルランダイオ、ヴェ ロッキオいずれもメジチ家の輝かしく幸せな時代に活躍した芸術家でございますな。そしてこれらの作品は大聖堂 と洗礼堂、サン・マルコ修道院、サンタ・マリ ア・ノヴェッラ聖堂あるいはストロッツィ礼拝堂といたるところにございましたから幼いベンヴェヌ-トの好奇心 を駆り立て早熟の才能を育んだことは疑い ございません。かの大天才レオナルドミケランジェロの作品をいながらにして見聞きして育った彼にとってまだ芸 術とは程遠い音楽師などに鼻 を引っ掛ける気にもなりません。けれどメジチ家の音楽隊は有力な毛織物組合(ギルド)に所属することになって おりましてこのギルドは町の主要産業である絹 織物や毛織物をヨーロッパ中に輸出しておりますから非常に権勢が強うございます。父はこのギルドにいる限り安 泰だと思ったに違いありません。父はどうせやるなら世間で一番の楽師になれとうるさく申します。

 

                                                     二

 さてメジチ家が復活しましてジョヴァン二枢機卿は父によくしてくれました。町中のあちこちにはメジチ家の紋章がご ざいましてフィレンツェ共和国として永い伝統が ありながら市の紋章はあまり代わり映えはございません。メジチ家の紋章楯は黒い六つの丸円を配しております が、共和国になりますとこれが赤い十字に変わる だけでございます。メジチ家が復権しましたから当然のように赤十字が削られまして今度は赤丸円が六つ金地に映 えております。父は詩人の嗜みがあるものです から次のような四行詩(ソネット)をものにいたしました。これは本邦の市井の川柳や和歌の類かもしれません。

 紋章楯の永く人目から離れたる
     この従順たる象徴の聖十字の下から
         今や晴れやかな栄光に輝く面をもて現れ
     聖ペテロの白き聖衣を着飾るたらん

 このソネットは市民の琴線に触れたようで大変評判になりまして忽ち町中に広まりましたから父は大いに面目を施 したようでございます。ソネットというは前代に ペトラルカと申す桂冠詩人が始めたものでイタリア語の書き言葉として確立されて、それまでのラテン語と一線を 画したものだそうでございます。教養ある人士 は ソネットの一つや二つは即座に歌う位でなければなりません。この点も本邦の和歌の心得によく似ております。大体チェリーニ家というのはどっちかと申すと資 産の少ない下層階級、といっても僅かな田地と家持ちですが選挙権などは勿論ございません。それでも穏健な親メジチ派のパレスキという党派に共感をもってお りましていわば声なき大衆というべきものでありました。従いまして共和制が終わるのをじーっと待っていたので ございます。こうしてメジチ家が返り咲くのが 1512年のことでございます。 その数日後ローマで法王ユリウス二世がお亡くなり、法王選挙のためジョヴァ ン二枢機卿がローマに上がり大方の予想を覆し て 法王レオ十世として即位するのでございます。父はこの日あることを予言したこのソネットを法王に贈りましたところ、感謝の印にローマに招請されましたが行 くことはありませんでした。ところが新たにゴンファロニエーレという市長職についたヤコポ・サルヴィアーティはすぐに父 か ら宮廷楽士の役を取り上げてしまいました。もう三十四年間というもの楽団に仕えてもう決して若くはないのですが、共和政下でも仕事を続けていたことが禍し たのかもしれません。父の解雇がベンヴェヌートに楽士という実入りの少ない生業を考え直す契機になったのは当然のことですな。しかしながら後年ベンヴェ ヌートの特徴である不実や不正にたいする鬱勃たる止めようのない怒りの感情はすでに発現しているようでござい ます。ベンヴェヌートはこれを粛清と考えたわ けですが、さすがにまだ十三歳の少年ですから後年のように報復とか復讐とまではいきません。しかしながらこれ を機会に兼ねてから興味を持っていた金細工の修 行に時間の半分を使うことを父に提案しますが、父は音楽が嫌いになったかとよい顔をいたしません。しかし生計 の悪化はどうみても明らかでございますから、父は 友人に頼んで短期間ミケランジェロ・ブランディーニという金細工職人の工房に入りました。この人はずっと後に なってベンヴェヌートの宿敵となる彫刻家パッ チョ・パンデネッリの父親という因縁がございます。少年は水を得た魚のように仕事が面白くなりましたから大い に精を出すところへ、頑迷な父親が現れて邪魔を して参ります。結局三日も経たずに頓挫する羽目に相なりました。その後の出来事はいろいろございますがこのお 話をお聞きの皆様には余計のことでございま す から省略いたしまして、ベンヴェヌートの十五歳からまたお話を続けさせていただきます。さて音楽の勉強を続けながらでありましたがこの年金細工師のアント ニオ・ディ・サンドロ通称マルコーネの工房に弟子入りをいたしました。父親はそれでも諦めずに息子の邪魔をしようとして親方に、息子は好きでやっている のだから他の弟子たちのように手間賃を払ってくれるな、などと難癖をつけて参ります。しかし西洋の父親という のは変わっておりますな。この親方は正直者で 一人息子に木偶の棒がおりまして、手掛かり仕事は全部この息子に与えてベンヴェヌートが独自に勉強する時間を 使えるようにしてくれたお陰で、目に見えるように 上達しましたので親方の喜びも一方ではありません。そしてこの僅か数ヶ月で熟練した若い金細工師に略匹敵する 技量を身につけることができました。もうこれ からは熟した実を刈り採るだけという立場になったわけでございます。それでもベンヴェヌートは父への感謝の念 を忘れることはなく時間を取っては父にフルー トやコルネットを吹いて見せると息子の見事な演奏に感涙する有様でございました。これからどういう事に相成りますか、一寸一息致しましてから申上げます。

 

 

                                                     

                                                  三

  て ベンヴェヌートが1500年11月に生誕したときフィレンツェには1498年にシニョリア広場で火刑になりました修道士サヴォナローラの余燼がまだくす ぶっておりました。町はサヴォナローラにもメディチ家にも反対する市民勢力が商人貴族体制と共に共和国となっております。この怪僧サヴォナローラと申しま すのは、社会の退廃や宗教の堕落を糾弾して信徒と共に町を練り歩くなどしたものですから、政庁だけでなくロー マ法王が危険を感じまして異端として火刑になった の です。ミケランジェロはサヴォナローラの過激な説教を聴きに行ったりしておりますしレオナルドもまだフィレンツェにおりました。それから有名なマキアヴェ リが共和国の政務長官として財政軍事外交を司ってわが世の春を謳っておりますが、数十年前にロレンツォ・イル・マニフィコが持ち前の外交の才を発揮し てイタリアにミラノ・ヴェネチア・フィレンツェ・ローマ・ナポリの五大都市国家の間の合従連衡に成功しまし て、どの勢力も強くもなく弱くもないという状態 が続いております。けれどもこの均衡がいつ破られるかもしれないという危うさは誰もが感じております。
さてベンヴェヌートに二歳違いの弟がおりまして、これが大変
大胆で気性の激しい少年で、後に有名なジョヴァン二・メディチの軍団に入隊して名を馳せます。弟 が十四歳ベンヴェヌートが十六歳のときのこと、ある日曜の夕暮れ時、町外れのサンガロ門とピンティ門の間の城 壁沿いの野っ原で年上の二十歳ぐらいの男と決闘 す る羽目にあいなりました。物見高い野次馬たちが周りを取り囲んでいます。決闘ですから刃物を持っておりますが、弟は結構な剣使いですから丁々発止している 間に相手に傷を負わせてしまいます。周りを取り巻いている中に相手の仲間が沢山います。味方が不利と見るやこの連中は弟に石を投げてそれが頭に当たりその 場に昏倒してしまいました。ベンヴェヌートは偶然居合わせたのですが、その場から弟を救いだそうと駆け寄って「もうやめろ、もう十分やっつけたぞ」と言っ て 弟 の捨てた剣を拾って振り回し、敵の仲間たちが近づくのを防ぎました。   ベンヴェヌートは弟のそばを離れず近くのサン・ガロ門にある見附の兵士が駆けつ けて来 るまでいきりたつならず者たちに立ち向かっていました。野次馬たちは私たちをまだ若いのに勇敢なものだと褒めていました。弟を家に運びましたが気がつくま で随分時間がかかりました。傷がようやく治りまして八人衆と呼ばれる政庁の治安委員会から呼び出しがありました。相手方のならず者たちはとっくに一年の 追放の罪に服しており、弟は半年フィレンツェから十里の追放という喧嘩両成敗になりました。ベンヴェヌートは 弟に一緒に来いと言いまして、哀れな父に別れを告げましたが、父は餞別を呉れるどころではなく、神の加護を祈るばかりでございました。   私たちは シエナに向かいそこのフランチェスコ・カストーロという親方を訪ねていきました。実は以前に家出したときにこ の優れた親方のもとで暫く住み込んでいたこと があったのです。そこでは金細工の見習いをしておりました。フランチェスコはベンヴェヌートを見ると直ぐに気 が付きまして、何も聞かずに仕事をくれまし た。 暫く働いているうちに親方は一軒家を私たちのシエナ滞在中貸してくれることになりそれから数ヶ月は仕事 に励み、弟はラテン語の初歩を学んだりしてましたがまだ年端もいかず娯楽に時を過ごしておりました。後 に法王クレメント7世となるメジチ枢機卿に父が懇願して我々のフィレンツェへの帰還が許されました。ところで 父の教え子のひとりでピエリーノという政庁の 喇 叭吹きが、なにか下心を持ってメジチ枢機卿に入れ知恵をしました。息子のベンヴェヌートをボローニャのアントニオという有名な音楽家に師事させたらどうか ということでした。卿はベンヴェヌートがボローニャに行くならば推薦状を書き学費も援助してやるということなの、で父は狂喜しまして、ベンヴェヌートも大 いに 行く気になりました。
さてボローニャに着きますとベンヴェヌートはエルコーレ・デル・ピッフェロという親方のところへ住み込んで、 生活費稼ぎをしながら毎日音楽のレッスンを受けに出 か けます。数週間も経たないうちにたいへんな上達をみました。金細工の仕事もさらなる進歩がありましたが、思ったとおり枢機卿は何の援助もくれることはあり ませんでした。そのうちスキピオーネ・カヴァレッティという細密画家と知り合い、彼の屋敷に住むようになりましてそこで細密画の修行に没頭しながら、グラ ツィアディオというユダヤ商人の注文の仕事で大いに稼いだものです。六ヶ月経ってフィレンツェに戻りますと例 のピエリーノの機嫌が悪い。邪魔なベンヴェヌー トが半年足らずで戻ったのに侮辱されたように感じたらしいのです。父を喜ばせようとコルネットとフルートをピ エリーノの若い弟のジロラーモと練習しまし た。そんなある日父がピエリーノの家に私たちの演奏を聞きにやってきましたが、その演奏に痛く感激して「これ でベンヴェヌートも立派な音楽家になったのでこ れからは反対したり、儂の翻意を期待する奴らに目にもの見せてやる」これに対してピエリーノは真実を語りまし た。         「あなたのベンヴェヌートは金細工師の方 が 笛吹きよりも立身出世するのだよ」父はベンヴェヌートもピエリーノと同意見なのを看取ると怒りに震えて叫びました。「儂の心からの願いを邪魔しているのは お前だということは分かっておる。儂のお役を取り上げさせて、儂にそのような酷い仕返しをするとはどういう料簡なのだ。  儂はお前を引き立 ててやった。お前は儂から仕事をもらい儂から演奏術をすべて学んだにもかかわらず、お前は儂の息子が父の言う ことを聞かぬように仕向けてきた。しかしこれか ら儂の予言の言葉をよーく聞け。年とも月とも言わず、否ここ二、三週間のうちにこの薄汚い汚辱に塗れたお前の ような亡恩の輩は廃墟のなかに真っ逆さまに落 つるであろう」これに対してピエリーノは「マエストロ・ジョヴァンニよ、大概の人は年寄るにつれて気 が違うものですから、あなたがそうなるのはちっとも不思議ではありません。なぜならあなたは子供たちに残すべ き財産を勝手に食い潰しているからです。私は そんなことをしないように心がけています。おまけにあなたの子供も助けるに十分なものを残そうと思っているく らいです」これを聞いて父は答えました。        「悪 木は良い果実を生まないとは限らないというがところがそうではない。おまえは悪人だ、その子供は気違いか乞食となり儂の徳のある裕福な息子にお布施をすが るようになるであろう」それから私たちは二人とも悪態をつきながら彼の家を去りました。通りに出るとベンヴェヌートは父に、絵の勉強を つづけさせてくれればこの悪党の侮辱に目にもの見せてやると言いました。父は答えました「なあ我が息子よ、儂 も若い頃は良い絵描きじゃったが趣味程度 で苦い人生の慰みでしかなかった、お前を産み育て、いろいろな隠れた才能を開かせた父親のために、慰みとは言 え時にはフルートを手に取り、思い存分にコル ネットの妙なる調べを吹いて音楽をする喜びを儂に与えてくれないだろうか」 ベンヴェヌートは父への愛情の証 として楽器を捨てないことを誓いました。父はそ れが敵に対する最も偉大な報復の手段であるというのでした。さてそれからひと月も経たない頃、ピエリーノが大 伽藍の北側にあるヴィア・ドロ・ステュディオ通 り に持っている家の地下室を支えるアーチの工事をしておりました。ある日この地下室の上にある一階のフロアに大勢の客に取り巻かれて、彼はご愛嬌に老師の先 の予言を言葉通りに皆に披露したのです、その言葉が終わらないうちに彼が立っているフロアの丁度真下の地下室のアーチが、建築の不備なのかそれとも神罰 が降ったのかは分かりませんが、床が突然崩れ落ちてアーチの石や煉瓦の瓦礫の中で彼は両脚を折ってしまいまし た。彼の近くにいた客人たちは皆無事で、間一髪 でポッカリ開いた穴に落下を免れたのです。しかし予言を口にした通りのことが眼前に的中したことは驚きと怖れ をもって受け取られました。父はこの知らせを 聞くと彼を見舞に行きました。そこにピエリーノの父親のニッコライオ・ダ・ヴォルテッラという政庁のトラン ペット吹きがおりましたが、父は「なあピエロ、 愛する弟子よ、お前の災難を慰める言葉もないが、ほんのちょっと前にお前に更に予言したことを覚えているだろ う。お前と私の子供たちについても予言が的中 するだろうよ」それから暫くしてピエリーノは病気で亡くなりました。彼は悪妻を残し一人息子は落ちぶれてその 数年後ローマのベンヴェヌートに施しを求め て やって来たのです。ベンヴェヌートはもちろん何がしかを与えましたが、まだ羽振りのよかったときのピエリーノが父に対して、彼の子供たちや困窮のベンヴェ ヌート達を扶けるに十分な財産を残すつもりだと言った言葉を、涙なくして思い出すことはできませんでした。もうこれ以上言うことはないのですが、他人が人 を理由なく侮辱するとき、その人の言葉は神の声だと心得るべきであるということでございます。

 

                                                  四

  うしてベンヴェヌートが金細工師として働いているうちは父親を大いに援助することができました。
ベンヴェヌートの弟はチェッキーノと申しますが前にも陳べたとお
りラテン語の初歩を習っております。   父の願いはベンヴェヌートを偉大な音楽家に、弟を法律家にすること でございました。けれども父は私たちの性向を変える ことは出来ませんで、ベンヴェヌートは絵画芸術に弟は立派な礼儀正しい人物で武人の性質でございました。 チェッキーノはまだ少年の頃に、偉大なジョヴァニー 二・ド・メジチの士官学校の最初の訓練から戻ってまいりますと、丁度ベンヴェヌートが不在でございましたが、 適当な服装がないといって父に内緒で、姉にベン ヴェヌートのクロークから外套とダブレットを出させましたが両方とも新調の良質の物でございました。  ベン ヴェヌートは父や愛する姉に援助をした上で自分の カネでこれらの衣類を買い揃えたものでした。ベンヴェヌートがこの紛失を見つけたとき父に尋ねました。弟は何 故こんな仕打ちをするのか、まるで何をやって も良いとと思っているのだろうか。父はお前は愛する息子だが、弟はぐれて失われた息子だったのがまた正道に 戻ってくれた。これは神の命令で持たない者に持 つ者は与えなければならない、そしてそれ故にこの不正義を耐えれば神はお前にもっと良いものを与えてくれるの だ、というのです。ベンヴェヌートはまだ未熟な為にこの悩み 多い親に反抗して、残りの衣服と金を持って家を飛び出し城門に向かいました。ローマに行くつもりでしたが、ど れがローマに続く城門か分からないうちに道を辿りますと、ルッカという 町 を通りましてそこからピサに着いてしまいました。ピサに行ったときベンヴェヌートは16歳でしたが町の中心にある「石魚」という不思議な名の市場にやって きまし た。すると金細工屋が目に付いたので、職人の仕事ぶりを熱心に眺めていますと親方がお前の世業は何かと聞きますので、同じ金細工師だと申しますと 彼はベン ヴェヌートを工房に招じ入れてくれました。そしてすぐに仕事を呉れて申しますには「お前さんの容姿からして きっと正直でおとなしい若者に違いない」
銀宝石についていろいろ教えてくれ、初日の仕事の終には彼の家に連れていかれました。彼は美人の妻子とかなり 良い暮らしをしていました。ベンヴェヌート は父が心配しないように、マエストロ・ウリヴィエリ・デラ・キオストラという立派な親方の下で働いているこ と、そしてさらなる技術の上達をして稼ぎと誇りを 持って戻ることを約束するので元気を出すようにという便りを出しました。父は次のように返事してくれました。
「愛する息子よ、お前への愛は深く、吾家の名誉
に 関わることでなければ直ぐにでもお前に会いに出立するところだが、お前がいないとまるで私の目の光が失われたに等しい。私は私で自分の仕事を精一杯やろう と思うから、お前はお前で立派な技術を習得して来てくれ。そして次の単純な言葉を思い出してそれを守り決して忘れないようにしなさい。どこにいても物を 盗まず正直に生きること」  この手紙がウリヴィエリ親方の手に落ちてベンヴェヌートの知らぬ間に読まれてお りまして、後で読んだことを謝りました。 「そうだったのか、愛するベンヴェヌート、お前の優れた容姿は裏切らなかったし、父親の手紙でそれが保証され てお前の父親も正直で名誉ある人物であること が分かった。これからはここを実の父の家だと思ってくれ」
サにいる間にカンポ・サントというローマ時代の軍団の墓地を訪れまして、古代の素晴らしい遺跡を見て回りまし た。つまり彫刻の施された大理石の石棺がたくさんあるのです。ピ サ の町には数多くの古代の遺物があり、ベンヴェヌートは仕事の合間を縫ってはこれらの研究に勤しんだのでございます。親方はベンヴェヌートに与えた小部屋に 来ては研究の進捗を見るのを楽しみにしておりまして、しまいにはまるで本当の父親のようになりました。ピサの一年間でベンヴェヌートは大いに腕を上げ、美 しい 洗練された金銀細工物を仕上げましてさらなる向上心をかきたてるのでございます。父はその間帰ってきてくれと いう懇願の手紙には、決まって苦労して教えた音楽 を 忘れてくれるなと書いてありました。これを見ましてそろそろ父のもとへ戻ろうかと思い始めたのでございます。実際のところピサへやって来ましてもう嫌いな 音楽をしなくてもよい、まるで天国のようなところだなーと思ったぐらいなのです。年の終わりにウリヴィエリ親方がフィレンツェに行く用事がありまして、溜 まった金や銀の削り滓を売るためなのですが、丁度ベンヴェヌートがピサの悪い気候に当たって熱を出したりしましたので一緒に里帰りをすることになりまし た。熱を出したまま親方とフィレンツェに向かいました。父は親方を大歓迎して迎えてくれました。、ベンヴェヌートはそれから2ヶ月間臥せっておりましたが その間父が親身に看病してくれたおかげで快方に向かいました。口癖に 快癒して音楽を聴かせてもらえるまでまるで千年掛かったようだと言っておりました。けれども父が音楽について 語る間、指を当ててベンヴェヌートの脈を測るの を見ても、父に医者の知り合いがあり医学の知識とラテン語の素養があることが分るのでございます。そして血流 の動きを心配して涙を流すこともございました。 そいうときにはベンヴェヌートは妹に笛を持ってこさせてま だ 熱があるのに指や舌を器用に使って吹いて見せると、父は感激で何度もベンヴェヌートを抱きしめて、思ったよりも素晴らしく上手になった、これからもさらな る向上を心掛ける様にというのでした。病が全快しますとベンヴェヌートは元のマルコーネ親方の工房に戻って、再び大いに稼ぎ父や家計を助けるようになりま し た。     その頃フィレンツェにピエロ・トッリジァーニという彫刻家がやって来まして、英国に長く親方と 親しい人物でした。毎日やって来ましてベンヴェヌートの 素描や細工物を見まして言うには、「実はフィレンツェに来たのはできるだけ多くの若い職人を見つけて、ヘン リー八世のためのウエストミュンスター寺院のモ ニュメントや自分のフィレンツェ風の作品を助けてもらうためだが、君の仕事ぶりや素描を見るとどうも君は金細 工師よりも彫刻家に向いているようだ。自分は 今大きなブロンズ像を作ろうとしているのだが、君をいつでも裕福な芸術家にしてみせるよというのです。こ の男は素晴らしい人物だが傲慢の気質があり、彫刻家というよりまるで軍人のような雰囲気がありまして、特に激しい仕草や眉を寄せる容貌はどんな人でも畏れ させるものでした。毎日やってきてはイギリスのならず者との手柄話をしていきます。或時話しがミケランジェロ・ブオナロッティに及び、ベンヴェヌートが彼 の下 絵カルトンから描いた素描を見せたからですが、このカルトンは神の如き画家ミケランジェロの偉大な才能を余す ことなく示した彼の最初の傑作です。ミケラン ジェロはこれをレオナルド・ダ・ヴィンチと競作してシニョリーア広場の政庁パラッツォ・ヴェッキオのホールの 壁に描くはずのものでした。与えられたテーマ はフィレンツェ人のピサ攻略を描けというのですが、驚異なるレオナルドは騎馬戦による軍旗の争奪戦を恐ろしい ほど写実的に描きました。ミケランジェロのそれは大勢の歩兵が夏の暑さにアルノ川で水浴びしている姿が描かれておりますが、丁度その時警報が鳴った 瞬 間を捉えていて、昔から今に到るまでこのような場面を活写したものはありません。レオナルドの絵も素晴らしく美しいものです。この二つのカルトンのひとつ はパラッツォ・ヴェッキオのホールに、他は法王の間に飾られておりました。これらが無傷で残っていれば世界の絵画の宝庫といってよいものでした。神の如き ミケランジェロが後にユリウス法王のシスチーナ・チャペルに描いたのですが、それは実力の半分程度で彼の天才はこの最初の傑作以上の作品になることはあり ませんでした。
さてこのピエロ・トッリジァーニにお話を戻しますと、彼はベンヴェヌートの絵を手にして「このブオナロッティと儂は子供時代カルミーナ教会の
マッサキオ・チャペルの壁画を勉強に出かけたものさ。ブオナロッティはいつもそこで絵を描いている連中を冷や かすのが癖だったが、或る日儂を捕まえて冗談 を言って困らせたので、儂はいつもより怒ってゲンコツを一発彼の鼻に食らわせてやったのだ。儂は彼の骨と軟骨 が拳にビスケットがぐさりと砕けるように感じたものだ。 これで儂の仕業を彼は墓まで持っていくことになったわけだ」 
この言葉を聞いてベンヴェヌートはこの男に対して憤怒がこみ上げてくるのを我慢できません
で した。後日談でございますが、この男はロンドンからマドリドに移りまして、貴人の胸像ブロンズなどを作っておりましたが、支払いが悪いと叩き壊したそうで す。その後異端裁判所に掛けられまして1522年に火あぶりの刑になりました。それまでは彼とイギリスに行ってみようかと気が動いてい た のですが、その話を聞いてからは見るのも嫌になってしまったのです。それからもベンベヌートはフィレンツェにあってミケランジェロの高貴な画法を懸命に研 究してそれからはずれるようなことはしませんでした。この頃ベンヴェヌートと同じ年頃の感じの良い若者と友情を結んだのですが、彼も同じ金細工でフラン チェスコ・フィ リッ ポといい、有名な画家のフラ・リッポ・リッピの孫に当たります。互いに交友する内に夜昼なく一緒にいる仲となりました。彼の家には父親の残した絵画やデッ サン、ローマの古代遺跡の図帖などがありまして、これらを眺めながらベンヴェヌートはローマに行きたいと舞いあがる心地でございました。二人の友情は二年 ほど 続 きました。その頃ベンヴェヌートは子供の手のひらサイズの銀の薄レリーフの革帯のバックルをデザインしました。古代の葉模様を周りに巻いて中に子供の像や 美女の顔が彫られています。これをフランチェスコ・サリンベーネの工房で作って売りに出したところ親方は最高の金細工師だと褒めてくれました。ここにジョ ヴァン・バッチスタ、渾名はイル・タッソという男がおりました。彼は木彫師で同い年です。ある日彼はローマに一緒に行く気はないか、それなら大変嬉しいと 尋ねました。私たちは夕食後に相談して、丁度ベンヴェヌートは父といつもの音楽のことで腹が立っていたところだったので、タッソにお前は有言不実行の男な んだよなぁと言いましたが、タッソは「俺も母親と喧嘩しているところだし、ローマに行く旅費さえあればもうあんな見窄らしいちっぽけな仕事場には戻りたく な い、と言うのでございます。これを聞いてベンヴェヌートは、彼をフィレンツェに引き止めているのがそれだけな ら、二人でローマに行くだけの金は持っていると申 しました。こうして話しながら歩いておりますといつしかポンテ・ベッキオを渡ってサン・ピエロ・ガットリー二 門(現在のポルタ・ロマーナ)に思わず知らず 差し掛かりました。  「タッソよ、神の思し召しか知らんが、二人とも知らず知らずのうちにこの門にやってき た、旅の半分も来たような気持ちがする」二人は一緒 に 同じ道を辿り始めました。「親たちは今晩何ていうかな」などど話しあっておりましたが、ローマに着くまでこの話はしないことを約束しました。私たちは前掛 けを畳んで背中に負い、とぼとぼとシエナに向けて無言で歩き始めました。シエナに着きますとタッソは足が痛くてこれ以上は歩けないので帰り賃を貸してく れといいます。ベンヴェヌートは言います。そういうことは家出前に考えておくべきことで自分にはもうローマに 行くだけの金しかない、歩けないのならローマ まで馬で行くしかないから、お前はこれ以上言い訳しなくてもよい。そして馬を借りましたがタッソは何も言いま せん。構わずにローマ行の門に向かいますと、ベン ヴェ ヌートの不退転の意思が伝わったのかブツブツ言いながら脚をひきずり、遠くから後に従いて参ります。門に着いて彼に同情して馬に乗せてやりました。 「もしこのままフィレンツェに戻ったら友人たちが何と言うと思う、ローマに行くとほざいてシエナしか行けなかった腰抜け共とな」タッソは元々陽気な質なの でそれからは歌い笑いながらローマまで愉快な旅を続けました。このときベンヴェヌートは19歳、この16世紀も同じ年齢でありました。

 

                                                    五

 ロー マに着きますとベンヴェヌートは、イル・フィレンズオーラという名の親方の工房に身を寄せました。かれはロン バルディアの出で大きな壺やプレートの類の名工 で ございます。ベンヴェヌートはフィレンツェのサリンベーネのところで作ったバックルのレリーフモデルを見せました。彼は大変気にいって、数年来彼のところ で働いている旅職人のフロレンス人ジャンノット・ジャンノッティという男に向かって言いました。「この人はフロレンス人のなかでも何か知っている人だが、 お前さんは何も知らないフロレンス人の類だなぁ」そのときになってベンヴェヌートはこれが誰か思い出して彼に話しかけました。このジャンノットというのは ロー マに行く前によく一緒に絵を描きに出かけた親しい仲間でした。けれども今親方に手厳しい言葉を掛けられたものですから、知らないフリをして誰だか分からな いというのです。ベンヴェヌートは怒りまして、「おい、ジャンノット!お前さんはかって友人としてこれこれこういう所に行って絵を描きに出かけたり、お前 の田舎の家で仲間と飲み食い寝た仲ではないのか。別にこの立派な親方に口添えしてもらう気はないけれど、お前の助けがなくとも俺の手がどんなに価値あるも のか十 分 示せるだろうよ」ベンヴェヌートがこう話しかけますと、親方フィレンズオーラも意気に感ずる豪毅な人柄ですから、ジャンノッティに向かって言いました。 「この下劣なゴロツキめ、昔の親しい仲間をそんなふうに扱って恥ずかしくないのか」そしてくるっとベンヴェヌートに向かうと言いました。「ようこそ私の工 房にいらっしゃいました。お前さんの言うとおりその手の価値を見せてもらいましょう」